昨日はツイッターでもお知らせしたとおり、浜松市の「子ども育成条例」について考える会に参加してきました。
この子ども条例、最近「子どもの権利条例」として各自治体で可決されていますが、非常に危険な問題をはらむ条例であることはあまり知られていません。
というより、そもそもそんな条例が議論されていることすら、余り知られていないのかもしれません。
昨日の考える会には、高崎経済大学の八木秀次教授が講師としておいでで、どのような問題があるのかを解説してくださいました。
ブログですのであまりだらだらと書くのはやめますが、ポイントだけ記していきます。
まず、このような「子どもの権利条例」が提案されるようになったきっかけは、国連の「児童の権利条約」が背景にあるということです。
この児童の権利条約は、いわゆる途上国などで人身売買されたり、売春させられたり、不当な扱いを受けている児童の人権を守ろうという物ですが、これが言葉だけ曲解され一人歩きし、違う内容にすり替えられてしまっています。
たとえば川崎市の「子どもの権利条例」では、「ありのままの自分でいる権利」や「自分で決める権利」などが謳われており、秘密が侵されないことや余暇を持つこと、親の体罰の禁止、などが盛り込まれています。
子供をありのままにしていたら、成長しません。
子供には物事の善悪や、大切にすべきことなどを教えていかなくてはならないのです。
これは押しつけでも何でもなく、親が果たすべき義務であり、子供がそれを受けない権利などないと私は思うのです。
この「子どもの権利」を主張する本にはもっとひどい内容まであります。
「自分の服装は自分で決める権利」・・・これはまだいいとしても、
「校則改正の権利」
「飲酒・喫煙を理由に処分を受けない権利」
「いかなる物でも教師に没収されない権利」
「職員会議を傍聴する権利」・・・などなど、耳を疑う物がずらりと並びます。
さらには、
「何か不都合なことをした場合にも学校に連絡されない権利」
「セックスするかしないかを自分で決める権利」
「つまらない授業を拒否する権利」・・・など、開いた口がふさがりません。
浜松市の「子ども育成条例」は、もちろんこういう内容は入っていませんし、「権利」を盛り込まない方向で調整中とのことで安心ですが、「権利を盛り込め」と主張する方達が強硬に主張しているそうです。
ひとつだけ注文をつけさせてもらえれば、条例案にやたらと「子どもは社会全体で育てる」という文言が入っていましたが、子供は親が育てるのが第一義ですから、その文章は省いていただければと思いました。
私には、こうした「権利」を子供(ちなみに、この子供という漢字も、大人のお供えみたいな印象があるから使うな、という意見から子どもと書くようになっているそうですが、これも訳がわかりません)に与えることが、なぜ必要なのか全くわかりません。
「国連でも児童の権利条約があるじゃないか。日本も批准しているじゃないか」といっても、先ほど書いたように中身は全然違います。
平成10年には、日本の女子高生達がジュネーブの担当機関の事務局に「日本では制服着用を義務づけられている。これは権利条約に違反する!」と直訴しにいったそうですが、「制服があるだけ恵まれていると思わないといけないよ」「スイスに来れるというのは恵まれていると思わないとね」と、外国の委員にたしなめられたそうです・・・
いずれにしても、私たちはいつから権利ばっかりに目を向けるようになってしまったのでしょうか。
子供のためにも、親や大人がしっかりと教育をすることが必要であると思います。
子供を守ることと、子供の権利をまもることは本質的に大きな違いがあります。
ツイッターでもたくさんのご意見をいただいておりますが、ほとんどの方が同様に考えてくださっているようなので、少し安心しています。
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コメント (21)
私が二十年以上勤務した高校は、赴任当時俗に「底辺校」と呼ばれ、荒れた学校でした。
テレビドラマのように長いスカートを履いた不良学生が授業を妨害し、暴力、喫煙、飲酒、万引き事件なども起こり、昼休みに暴走族が敷地内にバイクで侵入することもありました。
新米教員だった私は、生徒指導係として服装検査を担当し、夜間補導や時には張り込みもしました。生徒たちと向き合うことは全力投球、授業も真剣勝負だった。生徒に手をあげたこともあったし、退学処分になった生徒のために涙を流すこともありました。
体力的にも精神的にもきつかったものでしたが、毎日が充実し本当にたくさんの事を学ばせてもらいました。その一つは、教員としてのスキルです。
新任当初は、生徒たちを静めたり従わせたりするだけで精一杯。「威厳」や「恐怖」をその手段と考えることもありました。実際、いかにも「先生」という威厳を漂わせて生徒を緊張させ、規則や威圧感を盾に従わせるという教員も少なくありません。勤務校でも当時、毎日生徒を殴ることを勲章のように自慢する教員までいました。生徒のわがままを許さないという大義名分のもとに。
もちろん生徒を叱る時に自身の感情をさらけ出すことも、時には感情的に見せかけることもスキルの一つです。有無を言わせない雰囲気が必要な場面もあります。しかし教員として経験を重ね、叱ったり従わせたりすることが容易になるにつれ、それに頼ることの安易さと危険性を実感するようになりました。
なぜなら、従わせるだけでは人は育たないばかりか、「威厳」や「恐怖」に包まれた環境は生徒自身に、力関係を優先する誤った価値観を植え付けてしまうからです。教員を前にした表裏や生徒間での優劣、いじめを容認する雰囲気を作ることはあっても、お互いの傷みを感じられる生徒は決して育ちません。
生徒を従わせるだけの教員は、教員としての資質に欠けるという点で、生徒を叱れない教員と何ら変わりはありません。
大切なことは、生徒をコントロールできるスキルを持ちながらもそれを濫用せず、生徒と同じ目線に立ち、その痛みを自分のものとして感じ、心の成長を支えることです。それこそが、人の心が育つ上で最も大切なスキルではないでしょうか。
校長や生徒課長などが全校生徒の前で話をするときも、ザワザワと静まらない。しかし、私が壇上に上がった時にはサッと静かになったものです。「静かにしろ!」なんて叫ぶわけでもありません。それは多くの生徒たちとの信頼関係があったからです。「威厳」や「恐怖」で子どもの心を育て、良い方向に支えてゆくことはできないのです。「規則が人を育てる」わけではありません。人が人を育てるのです。子どもをコントロールできない大人が「威厳」や「恐怖」に頼って言うことを聞かせようとし、子どもを静かにさせられない大人が声を荒げるのです。そして、人を育てられない人が規則に頼るのです。
これは家庭でも社会でも同じです。子どもを従わせるだけの親のもとでは、劣等感が強く、その裏返しで人を見下す子が育ちます。子どもをコントロールする自信のない大人は、子どもが権利意識を持って精神的に自立することを恐れます。
「権利」を全てわがままと切り捨てる人は、権利とわがままを見極めることのできないという点で、「わがまま」を全て権利であると主張する人と何ら変わりありません。
大切なのは、「子どもはわがままなもの」「子どもに権利なんて与えたらわがままになってしまうだけだ。」などと短絡的に判断するのではなく、大人も子どもも「権利」の大切さを学ぶことではないでしょうか?
そういう意味で、この集会でのご意見や、このブログのご意見は稚拙で勉強不足を感じざるを得ません。
僭越ではございますが、この意見の公開をご期待しております。
投稿者: 子どもたちと毎日を生きている者 | 2010年02月19日 22:25
日時: 2010年02月19日 22:25
子ども達と毎日を生きているものさま、
コメントありがとうございます。
実際の教育現場で大変なご苦労をされてきた先輩からのお言葉は重みがあります。
おっしゃるとおり、教育で大切なことは、教育する側の大人がどうやって子供に教育するか、ということだと思います。
私は、権利をすべてわがままと切り捨てているわけでもありませんし、子供に権利なんかないといっているわけではありません。
ただ、むやみに曲解される可能性がある内容をわざわざ行政が条例で制定する必要はないと考えています。
「勉強しなさい」と親が注意すると「子供には余暇を取る権利が条例で認められているんだ」とかいうことになったらと思うと空恐ろしいという危機感を感じています。
先生もご存じかもしれませんが、実際に東京では、外でどろんこになって遊んできた子供がそのまま座敷に上がろうとしたのを「まー、汚い足。じゅうたんが汚れちゃうんだから」と注意した親のことを、「この親は子供の権利条約に沿った反応をしていない」と、青少年問題協議会で答申するということまで起きています。
いずれにしても、子供の未来のために、行政は何をすべきかという視点で考えていきたいと思っております。
「子供に権利があるのかないのか」という議論にすり替えるのではなく、「権利をわざわざ条例にする意味は何処にあり、何が目的なのか」ということを厳しく見ていく所存です。
今後もご指導のほどよろしくお願いいたします。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月20日 23:08
日時: 2010年02月20日 23:08
18日の集会に参加した、小学生の子どもを持つ2児の父です。
昨年でしたか、ある週刊誌の見出し「危ない!子どもの権利条例」が目がとまり、同じことが浜松でもあるらしいと知り、参加してみましたが、あまりにも子ども達へのとらえ方が極論的であり、片寄った意見を感じるもので驚いたというのが、私の感想です。
会場で、議員さんらしき方が同調する意見を発言していたりしていたので、市民としてはその後も気になって、検索をしていたところ、このブログに辿りつきましたが、源馬さんがあのような内容をそのままに受け止めているので、正直驚きました。
私は権利や教育云々ということについては申し上げられませんが、例えば集会の冒頭のVTRにあったような子どものわがままな発言はありがちだと思いました。子どもが権利条約云々ということ主張したとしても、それを真に受ける大人がどうかと思いました。
子どもの頃、好きなだけ遊びたい、勉強したくないと思ったことのない人はいないと思いますし、大人になったら働かなくても食べていけるならと思う人は、少なからずいるはずです。
だからといって、子どもが一生遊んで、勉強もせず、働かずに暮らせるとは考えることはなく、成長すればわかってくることです。
それを権利の主張と置き換えることには行きすぎていると思いました。
我が家の子ども達が、もしこのような発言をしたら、私ならVTRのお母さんのように目くじらを立てて怒るよりも、わかるように説明するのになと考えました。
最後に、お母さんは子どものお尻を酷く叩くシーンで終わるのですが、このあと子ども達はどうなったのでしょう?
お母さんに酷く怒られて、子ども達は理解できたのでしょうか?また、大人の教育というものは、このようなしつけ(体罰)ということなのか、源馬さんにお聞きしたいと思います。
投稿者: 2児のパパ | 2010年02月21日 02:37
日時: 2010年02月21日 02:37
お返事ありがとうございます。
実は同じ山崎しんのすけ議員のブログにも、同じ内容の書き込みをさせていただきました。
実は私も、政権が交代して民主党さんになれば「何かがよくなってゆく」という期待をしていた一人ですので、正直お二人の見解にはがっかりさせられたのが正直なところです。
そちらのほうにも書かせて頂いたのですが、やはりいろいろな個性や資質を持ったたくさんの「子どもの育ち」という面から考えると、お二人とももう一歩踏み込んだご理解が必要かと思われます。
>むやみに曲解される可能性がある内容をわざわざ行政が条例で制定する必要はないと考えています。
「曲解される可能性」がなぜあるのでしょうか?それは、日本人がこれまでに十分に権利意識を学んで来なかったからです。大人も子どもも「義務」ばかりを教えられてきて、権利について学ぶことが出来てないから、「わがまま」と「権利」の違いさえわからないのです。時には「権利」と「義務」さえわからない。
例えば最近起こった海渡君虐待死事件。あの例は極端な例かといったら大間違いで、死に至ることは少なくても現実に児童虐待が行われているケースはかなりの数になります。(現場から遠い方は危機感は感じないかも知れませんが)
ほとんどのケースで、親は「しつけ」と言います。子どもには「しつけられる義務」があるのだ。その際、親にも学校にも行政にも「子どもが虐待を受けない権利」を考えません。
子ども自身も、そんな権利があることは知りません。
それがこれまでの日本の教育です。
よく、「昔の親は厳しかった」「昔の教育はよかった」などと短絡的に考える年配者がたくさんいらっしゃいます。もちろん良い面もあったでしょう。
ところが時代背景を含めて教育というものを考えてみてください。
軍国主義や全体主義の社会ならば、親や学校、役人や政治家、そして国家の命令には服従しなければいけないのが当たり前です。その時代には「義務」を植えつける教育はあっても、「権利」などという観念はありませんでした。
しかし終戦後徐々に民主主義・自由主義の社会へと移ってきて社会構造が変わってきた。ところが、システムや構造だけが変わってきたのに、「権利」意識は育てられてきていないのです。年配方や時代や社会全体を含めて考えられる柔軟な思考を持たない皆さんは、旧態依然とした「義務」ばかりにとらわれ、民主主義に不可欠な「権利意識」に欠けているから、「権利」アレルギーを持ってしまうのです。
私が源馬さんと山崎さんにあえてこういった苦言を申し上げるのは、お二人が政権交代を果たしてこれからの日本を背負ってゆくであろう(今の状態ではいささか不安ですが。。。)「民主」党だからです。
>「勉強しなさい」と親が注意すると「子供には余暇を取る権利が条例で認められているんだ」とかいうことになったらと思うと空恐ろしいという危機感を感じています。
もしもそういう場面があるとしたら(それくらいのことは学校が荒れていた頃なら珍しくありませんでしたが)、逆に「なぜ今勉強しなければいけないのか」ということを説明して学ばせなければならないのは、むしろ親としての義務でしょう。それが説明できないのは、親の側が教育力に欠け、権利意識も持っていないからに他ならないのです。
逆に、子どもにしっかりとした権利意識を学ばせることが出来れば、もしその子に本当に必要な勉強ならばこんなバカなことは言いません。自分で自分にとって今のためにそして将来のために必要なことを選択できるでしょう。そしてそういう子が育つように努めるのが、民主主義の中で子どもを育ててゆく大人たちの義務なのではないでしょうか?
こういった「腰の引けた」意見は、いかにも教育力のない大人の意見であり、そういった皆さんを含めて我々大人が「権利」を「教育」を学ばなければ、感情論や感覚論以上の何物でもなくなってしまうのです。
「権利をわざわざ条例にする意味は何処にあり、何が目的なのか」それの答えがこのことです。
大人にも子どもにも欠けている「権利意識」を喚起し、それをより正しい方向で学び身につけてゆくためではないでしょうか?
川端達夫文部科学相が前述の事件に関する学校側の対応を「子供が大変な目に遭っているのではないかという感度が非常に低かった。極めて残念だ」とおっしゃっています。
この「感度」の低さは、権利意識の欠如から生まれているのだということを知るべきだと思います。
公開をお待ちしています。
投稿者: 子どもたちと毎日を生きている者 | 2010年02月21日 14:27
日時: 2010年02月21日 14:27
大変難しい問題です。何故なら昔と違い、今は、全ての情報が即入手できるようになったからです。1つの情報は、伝達の仕方によって色々な受取方があり、感じ方が違うからです。子供の側、親の側、教育現場の側、行政の側、一般人の側、全てが納得のゆく方向性はありません。
その中で、一番大事な事は、愛情を持って取り組んでいるのか?を絶えず意識しておくことではないでしょうか?
私は老人なので今の子供達の事は、自身の孫の行動しか解かりません。古くからの言い伝えである「権利の主張と義務の履行」このバランス感覚の持てるような育ち方をして欲しいと思います。
何れにしても、先ずは、親の責任論等をもっと議論する必要性が高いと思います。
投稿者: 奥村克彦 | 2010年02月21日 17:22
日時: 2010年02月21日 17:22
2児のパパさま、
コメントありがとうございます。
同じ会場にいらっしゃったんですね。
私は、今回の集会に出たからこのような意見を持ったわけではありません。
もともと、この「権利条約」に反対の考えを持っていたから参加しました(浜松の場合は「権利条約」ではありませんが)。
私の問題意識のひとつに、現在の日本に蔓延する、自分の権利ばかりを主張し社会や他人とのつながりの意識が希薄な空気があります。
「人に迷惑かけてるわけじゃないから何やったっていいじゃないか」と主張する若い世代が増えてきていることは、2児のパパ様もご異論はないのではないかと思います。
それには、私たち親世代の責任も大きいと思っています。
学校現場の先生方からお話を伺うことも多いのですが、携帯を没収された子の親が「没収していた期間の携帯料金を払え」といってきたり、「給食を食べさせてくれと頼んだ覚えはない」と給食費を支払わなかったりする親がいること、増えてきていることは事実です。
私たちは、自らの権利を主張することが得意な世代ではないかと自覚しています。
そして、法律や条令というものは、どうしても必要な場合にのみ作ることが望ましいと考えています。
できれば法律などがたくさんつくられる世の中ではなく、法三章の社会が望ましいと。
現在の日本で、そして浜松で、果たして「子供の権利を守る!」と条例化する必要があるのか、というのが私の考えです。
それだけ権利が蹂躙されている現実があるなら、法律や条令を定めないと歯止めがきかない状態なら、行政は対処すべきです。
VTRの中のお尻をたたくシーンですが、別に私はアニメーションの中身については深く考えませんでした。まぁ、よくあるアニメーションのワンシーンではないかと・・・そんなにシリアスに描かれてもいませんでしたし。
私だったら、自分の娘には、同じ内容だったら話をして大切なことは何かを教えます。
長くなり、失礼いたしました。
今後もご指導ご指摘よろしくお願いいたします。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月21日 23:14
日時: 2010年02月21日 23:14
子どもたちと毎日を生きているものさま、
コメントありがとうございます。
いただいたコメントを拝読し、おそらく「権利」と「義務」についての認識が、子どもたちと毎日生きているものさまと私の間でずれがあるなぁと感じました。
まず、私たち日本人が「義務」ばかり教えられてきて、権利について学んでないから、という点ですが、私は反対の立場です。
むしろ「権利」ばかりが強調され、「権利」を主張することこそが「進歩的」で「義務」とは旧態依然としたもので民主的ではないものと捉えられる風潮が続いてきたのが戦後の日本だと思います。
だからこそ「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」とドラッグをやる若者が増えたり、「俺の勝手だろう」と社会のルールを守れない子供や大人が多くなってしまっているのだと思います。
モンスターペアレンツも、まさに自分の権利ばかり主張しますね。
また、東京の海渡君虐待死事件に関しては、私は「子どもの権利条約」とは無関係ではないかと考えます。
確かに悲しい事件であるし、児童虐待は防がなくてはいけません。
これを防ぐためには「子どもの権利条例」で「ありのままに生きる権利」や「秘密を守る権利」、「余暇を持つ権利」を謳うことが重要なのではなく、むしろ虐待を禁止する法律にした方がよくありませんか。
こういう選択が、行政の果たすべき役割であると思います。
私は、先の2児のパパさまへの返信にも書きましたが、法律や条令は極力増やさないのが望ましい社会の姿だと考えています。
法律は何かを規制するもので、それが少ない社会が望ましい社会です。
もし、現在の日本で、「子どもの権利条例」で謳っているような、子供が秘密を守ったり余暇を持ったりする権利が法律で制定しなくてはいけないほど蹂躙されているのなら、そういう条約を作ればいいと思いますが、そういう状況ではないと認識しています。
子どもたちと毎日を生きているものさまは、今、そういう条例を作らないと危険な状態にあると思われますか?
ちなみに、今回議論させていただいている条例は、上記のような「権利」のことであり、虐待を受けない権利(そもそもこれを「権利」と呼ぶのはどうかと思いますが。私の「権利と義務」観では、これは虐待をさせない社会にする義務があって、受けない権利ということではないと感じます)や教育を受ける権利、などという、基本的人権に関わることは入っていません。
さらに、「昔の教育」についての時代認識も、戦前の一時期のことを捉えられているのだと思いますが、私はもっと長いスパンで捉え、日本だけでなく世界でも、親は子供に何をしたらいけないか、何をしたら危ないか、何をしなくてはいけないか、大切なことは何なのか、つまりそういう義務をまず初めに教えてきました。
なぜかといえば、それが生物学的にも生きるために最も重要だからです。
義務があって権利がある。
どちらかだけではダメですが、順序が逆でもダメなんです。
もちろん、親の愛情として、子供のすべてを包み込み愛するという気持ちは今も昔もどの親も持っていますが、それは「ありのままでいいという権利」を子供が持っているということではなく、親の愛情であるべきです。
しつこいようですが、現在の社会で法律で規定しないとこういう気持ちを持てないのであれば、条例を定めればいいんです。
たとえば、途上国で「児童の生きる権利」を規定したように・・・
教育の専門家である子どもと毎日を生きているものさまに対して生意気を申し上げたかもしれません。
ブログでは意を尽くし切れていないかもしれませんが、ご容赦ください。
引き続きのご指導をよろしくお願いいたします。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月22日 00:01
日時: 2010年02月22日 00:01
ちなみに私も、もっと若い頃は自分の権利ばかり主張し、義務なんてめんどくさいと考えていました。
勉強なんてするより遊びたい、ルールを守って窮屈になるより誰からも干渉されず自由に生きたい、と考えていましたし、義務やルールを厳しく教えてくれた親や先生、周りの人を疎ましく思ったこともありました。
しかし、現在、そういう大切なことを教えてもらったことを感謝していますし、放っておかれたらその大切さに今も気づいていなかったかもしれないと思います。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月22日 00:12
日時: 2010年02月22日 00:12
奥村克彦さま、
コメントありがとうございます。
「権利の主張と義務の履行」のバランス感覚、まさにその通りだと思います。
ただ、私は義務の履行があって、初めて権利の主張があるべきと考えます。
そして、親の愛情。
まさにこれが大切ですね。
子供がしたいようにさせるだけが親の愛情ではなく、子供が大きくなるために必要なことを教えることが本当の親としての愛情だと思います。
自分の子供には好きにさせた方が楽ですが、ぐっとこらえて厳しさも持つことが必要ではないでしょうか。
かくいう私はまだまだ未熟な親ですが・・・
今後もご指導をよろしくお願いいたします。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月22日 00:17
日時: 2010年02月22日 00:17
正直、がっかりしました。
教育を述べるならば教育を、子どもを述べるならば児童心理学を、子どもの権利条約を述べるならばその背景をしっかりとお勉強されてはいかがでしょう?
>むしろ「権利」ばかりが強調され、「権利」を主張することこそが「進歩的」で「義務」とは旧態依然としたもので民主的ではないものと捉えられる風潮が続いてきたのが戦後の日本だと思います。
だからこそ「他人に迷惑をかけなければ何をやってもいい」とドラッグをやる若者が増えたり、「俺の勝手だろう」と社会のルールを守れない子供や大人が多くなってしまっているのだと思います。
モンスターペアレンツも、まさに自分の権利ばかり主張しますね。
一般的に良く言われる意見ですね。
私が述べているのは、真の「権利」というものを教えられていないということなのです。ドラッグやモンスターペアレンツの例などは「権利」ではなくただの「わがまま」ですよね?
「権利」の何たるかを教えられていないからこういった混同やすげ替えが起こるのです。皮相的な考察に終わらずに、もう少し深く考えてみてはいかがでしょう?
ドラッグの問題も、「権利」ばかりを教えられてきたからだと短絡的に結び付けているのも、いかがなものでしょうか?
国際的に見て、「権利」を教えられる機会の少ない社会主義国のでも、ドラッグ人口がかなり多かったりもします。
「権利」という言葉への感覚的なアレルギーを持っていらっしゃるのが伝わってきます。
>また、東京の海渡君虐待死事件に関しては、私は「子どもの権利条約」とは無関係ではないかと考えます。
確かに悲しい事件であるし、児童虐待は防がなくてはいけません。
これを防ぐためには「子どもの権利条約」で「ありのままに生きる権利」や「秘密を守る権利」、「余暇を持つ権利」を謳うことが重要なのではなく、むしろ虐待を禁止する法律にした方がよくありませんか。
こういう選択が、行政の果たすべき役割であると思います。
このご意見には本当にびっくりしました。。。
もともと子どもの権利条約は、子どもたちが武力紛争・飢餓・貧困・環境破壊、家庭崩壊・虐待などにより人間としての人格や尊厳が維持できずに、傷つき、悩み、時には生命を奪われていることを防ぎ、子どもたちを「保護」という大人の側で恣意的に用いられる観念ではなくより積極的に守ってゆくという意味で「権利」として制定されたものであることはおわかりでしょうか?
それを、
「何か不都合なことをした場合にも学校に連絡されない権利」「セックスするかしないかを自分で決める権利」「つまらない授業を拒否する権利」
というレベルでの話題に貶めることは、軽薄さを感じざるを得ません。
もしも仮にそういうことを主張してくる子どもがいたとしたら、その時に「権利」とは何かを教えればよいだけの話です。それが教育というものでしょう。
それさえもできずに、「権利」という言葉は拡大解釈されるから避けるというのは、正しい「権利」を教えることを避けることに他なりません。「権利の主張と義務の履行」のバランス感覚は当然のことです。
正しい「義務」とは何かという説明と同じように、正しい「権利」とは何かということを子どもたちにもわかるように説明できる方はどれだけいらっしゃるのでしょうか?
>もし、現在の日本で、「子どもの権利条約」で謳っているような、子供が秘密を守ったり余暇を持ったりする権利が法律で制定しなくてはいけないほど蹂躙されているのなら、そういう条約を作ればいいと思いますが、そういう状況ではないと認識しています。
子どもたちと毎日を生きているものさまは、今、そういう条例を作らないと危険な状態にあると思われますか?
これもまたびっくりです。。。
なぜこのような軽い方向へ向いてしまうのか理解しかねます。
現在日本の子どもたちの置かれている状況は、何でも手に入って自由に過ごせるという表面的な幸福感の裏で、いじめや虐待、障がいへの無理解、貧困など様々な問題があります。政治にかかわる方が子どもについて述べるならば、自分の周りの狭い範囲だけでなく、もう少し「苦しんでいる子どもたち」のリアルな姿を見てお勉強されることをお勧めします。
>さらに、「昔の教育」についての時代認識も、戦前の一時期のことを捉えられているのだと思いますが、
教育史を学ばれてはいらっしゃらないようなので、説明はあえて省かせていただきます。
>私はもっと長いスパンで捉え、日本だけでなく世界でも、親は子供に何をしたらいけないか、何をしたら危ないか、何をしなくてはいけないか、大切なことは何なのか、つまりそういう義務をまず初めに教えてきました。
こういったことを教えるのは、ごく当たり前のことであって、「義務」という範疇だけのものではありません。
「なぜいけないのか」「なぜ危ないのか」「なぜしなくてはいけないのか」「なぜ大切なのか」ということまで教えることが大切であり、それがなければ自立した人間として成長することはできません。「言われたことだけはできる大人」を育てたいなら別ですが。
そして、これらの説明をするためには自分の義務と権利、周囲の人々の義務と権利に触れることなく理解させることはできません。
>なぜかといえば、それが動物学的にも生きるために最も重要だからです。
義務があって権利がある。
どちらかだけではダメですが、順序が逆でもダメなんです。
「動物学的」に「義務」が必要というのはどういう意味でしょうか?「動物学」という言葉の意味を取り違えていらっしゃるのでしょうか?
論理性に欠けていらっしゃるようです。
だらだらと長くなってしまいましたが、全体的にもう少しお勉強された方がよろしい感が否めません。
最後にもう一つお聞きしたいのですが、「民主党」の皆さんは日本の子どもたちの現状に関して、同じようなご意見をお持ちなのでしょうか?
公開をお待ちしております。
投稿者: 子どもたちと毎日を生きているもの | 2010年02月22日 03:14
日時: 2010年02月22日 03:14
子どもたちと毎日生きているものさま、
ご丁寧なコメントありがとうございます。
私のコメント欄に「子どもの権利条例」と書くべきところ「子どもの権利条約」と書いてしまったためかと思いますが、「子どもの権利条例」と「児童の権利条約」とを混同されていらっしゃるのかなと思いました。
>もともと子どもの権利条約は、子どもたちが武力紛争・飢餓・貧困・
>環境破壊、家庭崩壊・虐待などにより人間としての人格や尊厳が維持でき
>ずに、傷つき、悩み、時には生命を奪われていることを防ぎ、子どもたちを
>「保護」という大人の側で恣意的に用いられる観念ではなくより積極的に
>守ってゆくという意味で「権利」として制定されたものである
これも、「児童の権利条約」のことですよね?
私が問題にしている、「子どもの権利条例」はこれとは全く別物です。
>もし、現在の日本で、「子どもの権利条約」で謳っているような、子供が
>秘密を守ったり余暇を持ったりする権利が法律で制定しなくてはいけない
>ほど蹂躙されているのなら、そういう条約を作ればいいと思いますが、
>そういう状況ではないと認識しています。
>子どもたちと毎日を生きているものさまは、今、そういう条例を作らない
>と危険な状態にあると思われますか?
>なぜこのような軽い方向へ向いてしまうのか理解しかねます。
よって、これも、子どもたちと毎日を生きているものさまのおっしゃるように「軽い方向」へ向いているわけではなく、「子どもの権利条例」はこのような「権利」をうたっており、虐待や傷害貧困などの基本的人権に関わる「権利」には触れられていません。
さらにいえば、これら「子どもの権利条例」に謳われている「権利」とは、子どもたちと毎日生きているものさまもおっしゃるとおり「軽い方向」なのかもしれません。
もうひとつ誤解されているのではないかと感じる点がございます。
私は、「"子供がありのままでいる権利"とか"余暇を持つ権利"とか"秘密をもつ権利"などを条例で制定する必要はないのではないか」と主張しています。
それを、「子供には"虐待されない権利”などもふくめて、権利など一切いらない」と主張していると読み違えられていらっしゃるのかなと。
>もう一つお聞きしたいのですが、「民主党」の皆さんは日本の子どもたち
>の現状に関して、同じようなご意見をお持ちなのでしょうか?
これも一言付け加えておきますが、民主党の意見を述べているわけではなく、一政治家としての考えを述べています。
党の意見をみんなが同じようにいうだけでは、政治家である意味はありませんので。
この件に関して具体的な議論をしたことはありませんが、同じように考える政治家もいれば、違う意見を持った方もいるのだろうと思います。
ちなみに、共産党のみなさんは「権利」を条例にすることに前向きなご意見です。
ブログのコメントだけのやりとりでは、お互いなかなか意を尽くせないかと思いますので、よろしければぜひお会いしてご意見賜りたいと存じます。
今後もご指導よろしくお願いいたします。
(また、「動物学的」は「生物学的」のタイプミスです)
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月22日 14:03
日時: 2010年02月22日 14:03
条約と条例の書き間違いということはわかりました。
しかしまだお分かりになられないようですが、私が申し上げたいのは、どこの条例と同じにした方がよいとかいうものではありません。「子どもの権利条約」を批准しているのならば、そして子どもの権利を大切にしたいというお考えがあるならば、それをもとにした条例を作るべきであり、もし見本にすべきではない条例があると思われるならば、そうではない「権利条例」を目指せばよいのではないですか??
間違っても「『権利』を盛り込まない方向で調整中とのことで安心です」などという軽はずみな意見をおっしゃるべきではないと思います。
なぜなら何度も何度も申し上げているように、大人にも子どもにも欠けている正しい「権利意識」というものを少しでも根付かせるよい機会であり、「権利」を畏れて避けているから、間違った「権利」と「義務」が氾濫してしまうのです。
>民主党の意見を述べているわけではなく、一政治家としての考えを述べています。
党の意見をみんなが同じようにいうだけでは、政治家である意味はありませんので。
この件に関して具体的な議論をしたことはありませんが、同じように考える政治家もいれば、違う意見を持った方もいるのだろうと思います。
これもびっくりです。
誤解されていると心外ですが、私は共産党でも自民党でも何党でもありません。政治自体には基本的に興味のない人間です。政治の世界には落胆することが多いので、私はあくまでも市井の中で生きる一個人です。ですから、正直民主党の皆さんがどのようなマニフェストでどのような考えを持った政党なのかということに深い興味があるわけではありません。
ただ、今回源馬さんのブログを拝見して、「自民党」のような(偏見かもしれませんね。自民党支持者の皆さんスイマセン。)旧態依然とした教育観や上から目線の政治感覚を感じてしまったので、民主党のHPを拝見しました。
すると「民主党の未来世代応援政策」として「育ち育む応援プラン」というものが書かれていました。
http://www.dpj.or.jp/special/kosodate/04_02.html
「育て育む」ではなく「育ち育む」として、子どもを主体とした記述がすばらしいではありませんか。
そしてそこにはこう書かれています。
「未来世代応援基本法を定める上では、まず「子どもの権利条約」の考え方を踏まえます。日本は、子どもの権利条約を守ると国際社会に約束しているにもかかわらず、国内の法律や制度が未整備だと国連から勧告されています。これらの勧告などにも十分に応えられる内容のものにします。」
にもかかわらず、源馬さんは条例に権利を入れるべきではないとおっしゃっています。
また子どもの権利条約についてこうも書かれています。
「子どもを「保護する対象」とだけ見るのではなく、「育つ主体」としての子どもの人権を重視しているところがポイントです。」
しかも、このようなことまで明記されていますよ。
「子ども家庭省は、あくまでも内閣の一部ですから、その政権の意思が反映されます。政権から独立して、子どもの権利を普遍的に守る仕組みも必要です。それが、子どもオンブッドです。
子どもオンブッドは、ノルウェーで生まれましたが、現在では他の国々にも広がっている制度です。ノルウェーの子どもオンブッドは、予算は子ども家庭大臣のもとにありますが、権限は完全に政府から独立しており、あらゆる公的機関への立ち入り、あらゆる公的文書の閲覧の権利を持っています。
民主党は子どもオンブットを設置し、子どもにとって最善の利益はなにかということを基本に子どもたちの育ちを応援します。」と。
源馬さんは、この党方針に関しては反対なのでしょうか?
このような大きなことに関して「党の意見をみんなが同じようにいうだけでは、政治家である意味はありませんので。」
「この件に関して具体的な議論をしたことはありません」
って??民主党は大丈夫なんですか??
公開をお待ちしています。
投稿者: 子どもたちと毎日を生きている者 | 2010年02月22日 16:02
日時: 2010年02月22日 16:02
源馬さんがおしゃられている「児童の権利条約」が、「児童の権利に関する条約」でしたら、「子どもの権利条約」と「児童の権利条約」は同じ条約です。外務省、文部科学省は、「児童の権利に関する条約」としていますが、呼称として「子どもの権利条約」が一般的ですね。
児童憲章と間違っておられるのかもしれません。
「児童の権利に関する条約」では、虐待からも貧困からも子どもが守られる条文が入っています。
>この「子どもの権利」を主張する本にはもっとひどい内容まであります。
「自分の服装は自分で決める権利」・・・これはまだいいとしても、 「校則改正の権利」
「飲酒・喫煙を理由に処分を受けない権利」
「いかなる物でも教師に没収されない権利」
「職員会議を傍聴する権利」・・・などなど、耳を疑う物がずらりと並びます。
さらには、
「何か不都合なことをした場合にも学校に連絡されない権利」
「セックスするかしないかを自分で決める権利」
「つまらない授業を拒否する権利」・・・など、開いた口がふさがりません。
このような権利は、もちろん条約の中にはなく、国が批准した条約を、大人の視点だけで困った子どもとか今時の親や若者ということ言葉で、子どもの権利を曲解させ、権利のはき違いと反対されている方達がいらっしゃるのです。
子どもの権利条約は、日本が世界の子どもの権利についても認めるために批准されているそうです。浜松市が子どもの権利を認めないとなると、グローバルな発想を持った浜松とも言えない訳です。
「児童の権利に関する条約」のについてはもちろんのこと、制定と日本が批准した経緯などを熟読されると良いのではないでしょうか?
投稿者: 浜松市民 | 2010年02月22日 20:40
日時: 2010年02月22日 20:40
浜松市民さま、
コメントありがとうございます。
文字も小さいのでわかりにくかったかもしれませんが、私が申し上げているのは、「児童の権利(に関する)条約」と「子どもの権利条例(条約ではない)」は別のものであって、私は後者を問題にしていることをご理解ください。
>子どもの権利条約は、日本が世界の子どもの権利についても認めるために
>批准されているそうです。浜松市が子どもの権利を認めないとなると、
>グローバルな発想を持った浜松とも言えない訳です。
浜松市が、「子ども育成条例」に子どもの権利を盛り込むか盛り込まないかは、権利を認めるか認めないかではありません。
あくまでも、条例の中に入れるかどうかということです。
児童の権利に関する条約を批准しているから、子どもの権利条例を制定せよ、というのはおかしな話だと思うのです。
なぜなら、中身が違うのですから。
児童の権利に関する条約を批准しているから、同じ内容のものを地方自治体でも条例化せよ、というのであれば理屈はまだわかります。
しかし、その場合は、私は国家が条約を批准している以上、屋上屋を重ねるように同じ内容の条例を地方議会が制定する意味がないと考えます。
一方、今議論しているような、いわゆる「子どもの権利条例」(児童の権利条約とは別のもの)を制定するかどうかは、内容が違うのですから児童の権利条約を批准しているかいないかとは関係なく、その条例の内容自体が必要かどうかを議論する必要があると考えます。
意が伝わればと思いますが、書いていてもややこしいですね。
条例と条約も一見字面が似ていますし。
今後もご指導よろしくお願いいたします。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月22日 22:01
日時: 2010年02月22日 22:01
お返事をいただけませんが、以上を民主党の代表の一人の発言として心にとどめさせていただきます。
これからより一層のお勉強を期待します。
P.S 実に子どもじみた指摘になってしまいますが、「『動物学的』『生物学的』のタイプミス」とおっしゃいましたが、「生物学」の中には「義務」という言葉はありませんよ。このあたりもお勉強をお願いします。為政者として責任のある人が語る言葉なのですから、しっかりと意味を理解した上で使わないと説得力を持ちませんから。
公開をお待ちしております。
投稿者: 子どもたちと毎日を生きている者 | 2010年02月22日 23:00
日時: 2010年02月22日 23:00
子どもと毎日生きているものさま、
コメントありがとうございます。
議論が堂々巡りな気がしますが、私が問題にしている「子どもの権利条例」と、「児童の権利条約」が違うものということをご理解いただけたようで幸いです。
何度も申し上げますが、「児童の権利条約」を批准しているのだから「子どもの権利条例」を作れ、というのは論理が飛躍しています。
子供が虐待などを受けないようにすることは大切だと思いますが、それと今回の問題は別問題です。
これを一緒に議論されて、大切だと思うなら違う形で条例を作れ、といわれても、そもそも私はそのことを問題にしていないのですから、別の議論としてお話しさせていただければと思います。
私はとにかく、地方自治体が「子供には余暇を取る権利がある」だとか「子供には秘密をもつ権利がある」などと条例で盛り込む必要はないと主張しています。
これに対して、「いや、そういうことを盛り込むべきだ」ということであれば、是非そういう論旨で反論していただければと思います。
子どもたちと毎日生きているものさまからのコメントでは、どういう権利について、どこに、どういう形で明記すべきとお考えなのかがわかりません。
なぜ子供にあえて余暇を持つ権利やありのままでいる権利を行政で条例化しないといけないのでしょうか。
そもそも条例とはどういうものとお考えですか?
それから、子どもたちと毎日生きているものさまが何度もおっしゃっている「正しい権利意識」とは何なのか、「旧態依然とした教育観」とは何なのかも教えていただければと思います。
そういう意味で、私は民主党が「各地方自治体で子どもの権利条例を作るべし」という方針を出したとしても、私はそれに反対です。
理由はこれまで申し上げてきたとおりです。
これも何度も申し上げておりますが、文面だけではなかなか意も通じにくいと思いますので、ぜひお話しさせていただければと思います。
今後もご指導よろしくお願いいたします。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月22日 23:54
日時: 2010年02月22日 23:54
本当はもうコメントをしても無駄かと思って諦めようと思いましたが、もう一度だけ送らせていただきます。
>「児童の権利条約」を批准しているのだから「子どもの権利条例」を作れ、というのは論理が飛躍しています。
熟読して理解してくださっていないようなので、再度コピーして貼ります。私は以下のように書きました。
「子どもの権利条約」を批准しているのならば、そして子どもの権利を大切にしたいというお考えがあるならば、それをもとにした条例を作るべきであり、もし見本にすべきではない条例があると思われるならば、そうではない「権利条例」を目指せばよいのではないですか??
整理しますと、あなたが「子ども条例」に「権利」は要らないと主張しているのであって、それに対して私は
「権利」は大切なものですよ、
子どもの権利条約を批准しているのだから「権利」という概念は落としてはいけないのではないですか、
そのように正しい「権利」を教えることを避けようとするから「わがまま」と「権利」の違いを理解できない子どもや大人を増えるんですよ、
「権利」と「わがまま」を混同する子がいたらそれを機会に正しく伝えるのが教育ではないですか、
「権利」アレルギーはそれを学ぶ機会を奪ってしまうんですよ、
それさえも伝えようとしない或いは伝えることの出来ない大人の側の教育力のなさが問題なのではないですか(子どもに権利という観念を与えることを畏れる方たちも含めて)、
などなどを伝えようとしているのです。
あなたの論旨は
子ども条例に「権利」ということばは要らない
「子供には余暇を取る権利がある」だとか「子供には秘密をもつ権利がある」などと条例で盛り込む必要はない
ということだけですよね。
その根底にあるのは固定観念と感覚的な畏れだけで他に論理的な根拠は何一つ見えませんよ。
「義務」と「権利」に触れた部分でも、「義務をまず初めに教えてきました。なぜかといえば、それが生物学的にも生きるために最も重要だからです。」とおっしゃっていますが、(「動物学的」という言葉は修正しましたが)「生物学」で「義務」なんていうものは出てきません。「義務」という観念は人間にしかないものですから。動物にあるものは「本能」に基づいた行動であって、「義務」は生物学上の言葉ではありません。
つまり、あなたのおっしゃっていることのほとんどが「結論先にありき」であって、私のアドバイスから自身の固定観念を洗いなおして論理的に意見を構築していくというものではないのです。
>「子供には余暇を取る権利がある」「子供には秘密をもつ権利がある」などと条例で盛り込む必要はないと主張しています。これに対して、「いや、そういうことを盛り込むべきだ」ということであれば、是非そういう論旨で反論していただければと思います。
子どもたちと毎日生きているものさまからのコメントでは、どういう権利について、どこに、どういう形で明記すべきとお考えなのかがわかりません。
なぜ子供にあえて余暇を持つ権利やありのままでいる権利を行政で条例化しないといけないのでしょうか。
あなたがこういった条文は必要ないとおっしゃるのはわかりました。でも、同時にあなたはこうおっしゃっています。
「浜松市の『子ども育成条例』は、もちろんこういう内容は入っていませんし、『権利』を盛り込まない方向で調整中とのことで安心ですが、『権利を盛り込め』と主張する方達が強硬に主張しているそうです。」と。
あなたからすると私も「権利を盛り込め」と主張する方達の一人なのでしょうが、あなたは「権利を盛り込むな」と主張する人なのですよね?
私も条文の内容に関して他のどこと同じものにしていけばいいなどということはこれっぽっちも言っていませんし、もっと論議を尽くして精錬されたものにしていけば良いと思います。そして「権利」という言葉を畏れずに向き合い、大人も子どもも正しい権利意識を持てるようにしてゆくことは、現在の日本の子どもたちを「いじめ」「自殺」「犯罪」などから守ってゆくだけでなく、より成熟した民主主義社会を構築してゆくための必要不可欠なキーワードであると考えます。
>「正しい権利意識」とは何なのか、「旧態依然とした教育観」とは何なのかも教えていただければと思います。
「権利」については一つヒントを差し上げます。
どうも「権利」=自由という短絡的な誤解をされているようですね。「権利を大切に」するということは、自分自身だけでなく「他人の権利も大切に」しなければならないのです。
「権利」と「義務」が表裏一体であるのはここから考えれば少しは理解しやすいでしょう。あなたが「義務があって権利がある。どちらかだけではダメですが、順序が逆でもダメなんです。」とおっしゃったのは、この二つを理解していないことの表れです。どちらも本質的に同じものなのですから。
あとはご自身で考えを深めてください。固定観念や感覚的な判断に流されなければ、子どもを守るために「権利」の観念を落としてはいけないという理由が見えてくると思います。
教育哲学に関しては、「陶冶」などという前近代的な教育学ではなく、実存主義的教育哲学に触れてみてはいかがでしょう?E.フロムやボルノウあたりの書物を熟読されることをお勧めします。
>これも何度も申し上げておりますが、文面だけではなかなか意も通じにくいと思いますので、ぜひお話しさせていただければと思います。
前述したように、私は政治の世界との関わりを避けたい人間です。ですからお会いしてお話しすることも申し訳ありませんがご遠慮させていただきたいと思います。
もしも、これだけ時間をかけてアドバイスを差し上げても根本的に理解していただけてないとしたら、いくら熱弁をふるわれたとしても私にはストレス以上のものはないですし(笑)
ただ、もしも謙虚に私のアドバイスを求めていただけるのならメールをいただければと思います。
もちろん、上記の文面など私のアドバイスへの理解に苦しんでいらっしゃるようでしたら、一切の連絡は不要です。
私はあなたへアドバイスを伝えるために相当な時間を費やしてしまいました。私にはもっと大切な仕事がたくさんありますので、このあたりで失礼させていただきます。
お読みいただきありがとうございました。
どうか私利私欲や固定観念や既成概念にとらわれることなく、短絡的な一般論に陥らないように努力しながら、物事の本質が見えるような為政者となるようお勉強とご努力を期待しております。
公開をお待ちしています。
投稿者: 子どもたちと毎日を生きている者 | 2010年02月23日 01:58
日時: 2010年02月23日 01:58
私の午前中のコメントがアップされていませんが、いつ公開されますか?
投稿者: 子どもたちと毎日を生きているもの | 2010年02月23日 21:13
日時: 2010年02月23日 21:13
時間をかけて説明しても、固定観念が強いのかなかなか理解していただけないので、本当はもう諦めて書き込みをやめるつもりでした。
しかし、最後にしたつもりの昨日(2/22昼)の書き込みがなぜかUPされないので、再度サインイン書き込ませていただきます。
>「児童の権利条約」を批准しているのだから「子どもの権利条例」を作れ、というのは論理が飛躍しています。
子供が虐待などを受けないようにすることは大切だと思いますが、それと今回の問題は別問題です。
これを一緒に議論されて、大切だと思うなら違う形で条例を作れ、といわれても、そもそも私はそのことを問題にしていないのですから、別の議論としてお話しさせていただければと思います。
私はとにかく、地方自治体が「子供には余暇を取る権利がある」だとか「子供には秘密をもつ権利がある」などと条例で盛り込む必要はないと主張しています。
これらの源馬さんの論旨には大きなブレがあるので指摘させていただきます。
源馬さんは
当初のブログでこうおっしゃっています。
「『権利』を盛り込まない方向で調整中とのことで安心ですが、『権利を盛り込め』と主張する方達が強硬に主張しているそうです。」
と、「権利」という言葉を全て入れるべきではないという本音をおっしゃっています。
ところが今回のコメントでは
「『子供には余暇を取る権利がある』だとか『子供には秘密をもつ権利がある』などと条例で盛り込む必要はないと主張しています。」
と、細かい条文だけが問題であるかのようにすり替えています。
あなたは、「余暇」「秘密を守る」など「権利」を濫用したようにあなたが受け止めている条文に対してのみ否定的なのか、それとも「権利」を文言として入れること自体に否定的なのかどちらなのですか?
私が何度も申し上げているのは、他の地域の条例を真似る必要はないが、子どものための条例を作るならば「権利」という概念を大切にして加える方が、成熟した民主社会を作り上げていくためにはメリットが大きい。大人にも子どもにも正しい「権利意識」が育つよい機会ではないかということをいろんな側面から論理だててお話し申し上げております。
あなたは何度も何度も川崎市の「子どもの権利条例」の例を引き合いに出されます。
私も、川崎の条例が素晴らしくて見本にすべきだなどとは一言も言っていませんし思ってもいません。個人的には誤解を受ける危険性があって修正すべき点もあろうかと思います。
しかし、あなたの以下の意見には明らかに偏りがあります。
>このような「子どもの権利条例」が提案されるようになったきっかけは、国連の「児童の権利条約」が背景にあるということです。この児童の権利条約は、いわゆる途上国などで人身売買されたり、売春させられたり、不当な扱いを受けている児童の人権を守ろうという物ですが、これが言葉だけ曲解され一人歩きし、違う内容にすり替えられてしまっています。たとえば川崎市の「子どもの権利条例」では、「ありのままの自分でいる権利」や「自分で決める権利」などが謳われており、秘密が侵されないことや余暇を持つこと、親の体罰の禁止、などが盛り込まれています。
まず認識の誤りは、あなたが「子どもの権利条約(=児童の権利条約)」は途上国の児童を守るためのものだと思い込んでいるということです。
確かにきっかけとしては目に見えてヘヴィーな問題を抱えた途上国の子どもたちの問題を取り上げています。しかしこれはそこに限定するのではなく、全ての子どもたちに普遍化した問題として捉え、「子どもを「保護する対象」とだけ見るのではなく、「育つ主体」としての子どもの人権を重視しているところがポイント」なのです。
あ、ちなみにこれは「民主党の未来世代応援政策」「育ち育む応援プラン」からの抜粋です。
そして民主党さんはさらに
「『子どもの権利条約』の考え方を踏まえます。日本は、子どもの権利条約を守ると国際社会に約束しているにもかかわらず、国内の法律や制度が未整備だと国連から勧告されています。これらの勧告などにも十分に応えられる内容のものにします。」とその政策の方針を明らかにしています。
決してあなたがおっしゃるように「いわゆる途上国などで人身売買されたり、売春させられたり、不当な扱いを受けている児童の人権を守ろうという物」なんていう愚かな誤解をせずに正しい認識をしています。
あなたの論旨は「結論先にありき」で、「権利なんていう言葉は子ども条例にはいらない。」ということを感覚的に述べているだけの薄いものなのです。
あなたが今後も民主党員として活動していく方ならば、党のHPに載っているようなこういった大切な内容程度はしっかりとお勉強され、見解を同じくされたほうがよろしいのではないでしょうか。
前にも書きましたが、私は川崎市の子ども条例が素晴らしいから真似しなさいなんていうことは言っていません。でも、その一部を取り上げて、『権利』なんていう言葉は入れちゃいけないという結論に結びつけるのではなく、なぜ「親の体罰の禁止」という条文を入れなければならなかったのかという背景までご自身で調べるべきではないでしょうか?現地に赴いて制定に関わった方に話を聞くなりして。そういったことを怠って短絡的な結論を感覚的に述べるのは、失礼かもしれませんが私には政治家としての怠慢と見えてしまいます。
そのためもあって、「私は民主党が『各地方自治体で子どもの権利条例を作るべし』という方針を出したとしても、私はそれに反対です。」とまでおっしゃっている根拠に、論理的な裏づけが全く見えてこないのです。
>「正しい権利意識」とは何なのか、「旧態依然とした教育観」とは何なのかも教えていただければと思います。
私はあなたへの説明を、出来る限りわかりやすく丁寧にするためにかなりの時間を割きました。それも、政権交代した「民主党」に対する期待感があったためです。
しかしこういった質問は、政治家の方からされるような内容としては甚だ疑問です。
そこでここは、ヒントとアドバイス程度にとどめておきます。
「正しい権利意識」
「権利」とは自分にも他人にもあるべきものです。自分の「権利」を守ることと同時に他人の「権利」も守らなければならない。「権利」が万人のためのものであるという前提の下にあべきものが「義務」です。
「義務があって権利がある。どちらかだけではダメですが、順序が逆でもダメなんです。」なんておっしっていますが、順序なんてありません。「権利」と「義務」は表裏一体なのですから。
あとはご自身で、より深めてお考えください。
「旧態依然とした教育観」
「陶冶」などという前近代的な理念のことを申し上げております。それさえもご存じなければ、まずは予備知識としてそこから始めて、その後で実存主義的教育哲学に触れてみてはいかがでしょう?E.フロムやボルノウあたりの書物を熟読されることをお勧めします。
理解できる内容でしたら、教育観にも変化が生まれるかもしれません。
>これも何度も申し上げておりますが、文面だけではなかなか意も通じにくいと思いますので、ぜひお話しさせていただければと思います。
私は政治の世界には興味がありません。政治家の方にこうして現場の生の声を伝えることに時間を費やすよりも、子どもたちのための時間を費やしたいと思いますので、申し訳ありませんがお会いする意思はございません。
私の説明が理解されないにもかかわらず、あなたの熱弁をお聞きするのはストレス以外の何物でもないのでご遠慮したいという気持ちもあります。
ただ、もしよくお勉強されて私の説明を理解していただけたようでしたら、直接メールをいただければと思います。
今後のご活躍をお祈り申し上げます。
投稿者: koss yamamoto
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2010年02月24日 01:53
日時: 2010年02月24日 01:53
子どもたちと毎日生きているものさま、
たくさんコメントをありがとうございます。
皆様からいただいた大事なご意見はすべて拝読し、誹謗中傷などでない限り基本的にすべて公開させていただいておりますが、昨日から県議会本会議も始まり、遅れていますことご理解いただければと思います。
私の意見は何度も主張しているとおりです。
子どもたちと毎日生きているものさまとは考え方が違うようですが、子ども育成条例に曲解される可能性がある「権利」は入れない方がいいと考えています。
理由はこれまで縷々述べてきたとおりです。
これは、「子供には権利などいらない」とか「権利なんて大切ではない」といっているわけではないということは、素直に呼んでいただければおわかりいただけると思います。
「権利のことを大切だと思うなら条例に入れろ」というご意見はあまりに乱暴なお話です。
今回はいろいろと教えていただきましてありがとうございました。
投稿者: 源馬謙太郎 | 2010年02月24日 12:22
日時: 2010年02月24日 12:22
お騒がせしました。
「乱暴なお話し」で申し訳ありませんでした。
こちらこそ、ある意味お勉強になりました。
以上で書き込みは終了しますのでご安心ください。
投稿者: Hirotaka Suzuki
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2010年02月24日 14:37
日時: 2010年02月24日 14:37